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アイルランド民謡と日本の唱歌

2025.06.02

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アイルランドは古い王国ですが、17世紀にはイギリスとの戦いに疲弊し、貧しいカソリックの農業国として生業を立てていました。仕事の後は音楽やダンスをしながらお酒を飲むのが楽しみとされていたので、パブでは朝までみんなで音楽を楽しんでいたようです。沢山の民謡が生まれました。

1845年に主食にしていたジャガイモが大飢饉となり100万人と言われる、多数の餓死者が出ました。イギリス政府は移民の流入を恐れ、わずかな補助金を出してアメリカへの移民を奨励し、200万人以上のアイルランド人が新天地を求めアメリカに移民しました。しかし、アメリカに着いても過酷な仕事や低賃金の仕事しかなく、都会周辺に残った者たちは警察官や消防士という危険な職業に就くしかありませんでした。
その他の多くの移民が大陸横断鉄道の敷設労働や炭鉱労働の仕事を求めてディープサウスと呼ばれるキャロライナ、ヴァージニア、テネシーの山の中に移り住むようになります。彼らは毎日の過酷な労働の癒しに音楽を楽しむようになります。祖国から持ち込んだフィドルやギターに合わせて週末の集会場などで演奏しながら踊りや酒盛りを楽しみました。
家族や兄弟のバンドが沢山現れて、あちこちで人気者も出てきます。これがアパラチアンマウンテンフォークソングの原点です。後に有名になるカーターファミリーやエバリーブラザース、スタンレーブラザースなど家族や兄弟で演奏を楽しみながらのバンドが世に出てきました。
敬虔なカトリックのクリスチャンが多かったので日曜日は教会で賛美歌を歌い、ゴスペルやセイクレッドソングと呼ばれるジャンルも出来ました。ラジオ放送が始まった1930年代にアラン・ローマックスという民謡研究者がアパラチアに伝わるアイルランドの古い民謡を録音しラジオで全国に紹介し、ヒルビリー音楽と呼ばれるようになります。
やがてカウボーイソングと融合したカントリーミュージック、ロックと融合したロカビリーなどに発展して人気を博すようになり、アメリカ音楽の源流となりました。

一方、マウンテンフォークの伝統を守りながらバンジョー、マンドリン、フィドル、ギターなどの生楽器で演奏するバンドがビル・モンローというマンドリン弾きによって始められます。彼のバンドの名がブルーグラスボーイズということであったのでそのスタイルがブルーグラスと呼ばれるようになりました。僕がブルーグラスを始めたのもその頃で、大学生の1968年でした。日本では創世記の頃でしたが、もう55年以上も経ちます。

ではアイリッシュ音楽と日本音楽の関係とは?
日本では1870年頃から、明治の文明開化が始まり、西洋文化を取り入れようとします。鉄道施設などでイギリスの工業を参考にしていましたので、教育や文化面でもイギリスを参考に西洋化を推進し、アイルランドやスコットランドの民謡を日本語にして子供の音楽文化の西洋化を奨励しました。庭の千草、蛍の光、仰げば尊し、アニーローリー、子供の頃僕らが習った音楽はその頃、文部省唱歌として取り入れられ、今では日本の唄として歌われています。

アイルランド人はお酒や踊りが大好きで、街の中のパブやダブリンの路上ではでは毎日多くの人が集まって合唱したり演奏したりしています。長い迫害の歴史などで悲しいバラッドや静かなメロディーが多いので、日本の唱歌にしても良く馴染むのだと思います。ユーラシア大陸の西の端のアイルランドと東の端の日本。地球上で一番離れた所で同じメロディーが人々の心に溶け込んでいるのは面白いですね

正に、音楽に国境はないといわれる所以でしょうね。

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