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2025.07.15
会長の時間
今週も「建築を通して私が学んだこと」巡り会った人と建築をテーマに話しをさせていただきます。
1970年 私は大分大学付属中学校に進学しました。
進学のきっかけは、その年のお正月が明けてまだ3学期の始まる前、自宅で父親が覚えたてのマージャンを家族相手に卓を囲もうとしていた時、突然鶴崎小学校の担任古野先生が参考書をかかえて訪問してきました。そしていまにもマージャンを始めようとしていた我が家族一同に「あなたたちは何をやっているのですか。この参考書で和雄くんに勉強させて附属中学校を受けさせなさい」と一喝して帰って行きました。
その日以来、父親は2度とマージャン牌を握ることはありませんでした。
その後、私は附属中学校を受験し合格することが出来、鶴崎小学校の同級生と別れて進学することになりました。
1970年は第1回目の大阪万博が開催された年でもありました。
残念ながら私は万博を見に行くことは家庭の事情で出来ませんでしたが、その万博のマスタープラン、マスターデザインとお祭り広場の設計を担当したのが当時日本の建築界のスーパースターである丹下健三でした。
丹下健三は、広島平和記念公園計画を皮切りに、東京都庁舎、香川県庁舎、草月会館、東京オリンピック代々木屋内総合競技場、東京カテドラル聖マリア大聖堂、山梨文化会館やユーゴスラビアのスコピエ復興計画や在日クウェート大使館等々、戦後の日本の国家プロジェクトを次々と生み出し、国際的にも高く評価された最初の日本人建築家でした。そして日本建築界の帝王であると同時に、昭和38年に新設された東京大学工学部都市工学科の教授として数多くの建築家を育てた教育者でもありました。
丹下健三の設計は、20世紀のモダニズム建築を創造したル・コルビュジエの流れを組むものでした。丹下健三氏よりもやや先輩でパリのル・コルビュジエのアトリエで実際に修業を積んだ前川国男氏や板倉準三氏のお2人と違い、彼は中学生の頃より建築雑誌に掲載されたコルビュジエの作品で当時の最先端のモダニズムの建築を学びとりました。
彼は学生時代から飛び抜けた造形力を発揮し国の重要な設計コンペに勝利し、名声を高めました。
丹下健三の設計手法は、縄文から弥生、伊勢神宮から寺社の伽藍配置に続く日本の伝統的な様式と都市と建築の関係性に着目した都市計画的な視点を融合したものでした。
1970年の大阪万国博覧会計画には丹下のもっている建築思想が余すところなく発揮されています。都市軸を中心に広がりのある全体計画、都市のコアとも呼べるお祭り広場の設定、そしてそのお祭り広場を覆う大屋根を突き抜ける芸術家岡本太郎の太陽の塔は、日本の縄文文化そのものの化身であり、丹下健三のとなえた「伝統と創造」を体現したモダニズムの表現でした。
2025年の今日開催中の大阪万博では、日本の伝統工法である巨大な世界最大規模の木造・木組のループが建設され、その中に会場が納められているというマスタープランですが、同じ大阪万博のマスタープランが55年の時を経てこの様に変化したのかと思うと感慨深いものがあります。
55年前の万博のテーマ希望にみちた「人類の進歩と調和」という言葉が思い出されます。
次回は、大分出身のもう一人の世界的建築家・磯崎新について考察したいと思います。