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2025.09.11
会長の時間
今週も引き続き「建築をとおして私が学んだこと~巡り会った人と建築~」についてお話させていただきます。1973年の春大分大学附属中学校を卒業した私は県立大分上野丘高校に進学しました。私の同期28期生には本日のゲスト藤内修二先生をはじめ著名な方も多数います。先日ゲスト卓話をお願いした大分県副知事の尾野賢治さん、元全日空社長の平子裕志さん、ジェイリース会長の中島拓さん、元東京電力取締役の姉川尚史さん、元NHKニュース9アンカーの田口五朗さんなどその他各分野で活躍されている方が多数います。
私は学業の成績については国立名門大を目指せる程度の上位を維持していたのですが、高3の夏運の悪いことに4か月ほど入院する憂き目に会い秋になって復学した時ある先生から慶応の理工学部なら推薦で行かせられると誘いがあったのですが慶応には建築学科がないためお断りして、翌1976年はお茶の水の駿台予備校のお世話になることとなりました。駿台に行ってみると結構中高の同級生がうようよ居てそんなに寂しくはありませんでした。浪人時代にもかかわらず屈託のない笑顔のこの写真は付属中同級生の富来君と上野丘の同級生の秋吉君と共に駿台予備校の校舎のベランダで写したものです。二人は文系で、東大文一に進学し、二人とも一流商社一流銀行に就職しました。
駿河予備校では今でも忘れられない二人の講師に遭遇しました。一人目は当時駿台予備校の学長兼英語講師の鈴木長十という英語教育界では超有名な方です。老獪な雰囲気を漂わせる長十先生は最初の講義で緊張する無垢な予備校生を前にしていきなり「いかに離婚するということが困難なことなのか」ということ綿々と説かれました。ことの真否はわかりませんが自分が離婚に踏み切れないのは財産を半分取られてしまうことが惜しいからだと嘆かれていました。無知な私は離婚すると財産の半分を失うということを初めて知りました。後で聞いた話では長十先生は駿台のオーナー一族の一人で世田谷区の長者番付に載るほどの大金持ちだったということです。
もう一人いまでも忘れられないのが英語講師の奥井潔先生です。奥井先生のサマセット・モームなどの小説を題材にした英文解釈は受験英語のレベルを超えて文学的な解釈で私は魅了されました。奥井先生の講義の合間の雑談もいつも興味深いものでした。親に心配をかけるのは親を長生きさせる秘訣だとか、イギリス貴族の友人が遊びに来た時自宅に案内したら門と玄関がくっついたような建物を見てこれは門番小屋だろおまえの館はどこにあるのかと問われたこととかウィットに満ちた話をいかつい風貌から想像できない優しい語り口で我々予備校生に話してくれました。
振り返ると今でも思い出に残る知的な刺激が記憶に残っていることは駿台に通った1年は決して不毛で無駄なものではなかったと思います。
1977年国立大と私立大を受験しました。私立には無事合格し入学金を納めて、国立の発表の当日の朝、私の下宿に突然父が満面の笑みで訪ねてまいりました。親子二人で国立大の発表を見に行きました。私は一目見るなり受験番号がないことを確認しキャンパスのはずれでたたずんでいましたがいつまでたっても父は出てきません。父は合格発表の掲示板を何度も食い入るように眺め離れようとしませんでした。その日は二人でホテルに泊まり父は私にビフテキをふるまってくれ、お前は将来建設省で国の役人なるわけではない田舎の設計事務所の跡取りは私学で十分だと慰めてくれました。その日は父に本当に申し訳ないという気分でいっぱいでした。翌朝下宿に帰ると下宿の仲間がみんなで私を祝ってくれるのです。俺は落ちたのに何故かと問うとその日の朝刊に合格発表を笑顔で眺める私の写真が載っていたので仲摩君は合格したと思ったと皆に笑われました。そのころ私はいつでも笑顔を絶やさない子供でした。
4月に早稲田大学理工学部建築学科に進学しました。入学式では早稲田の記念会堂で村井資長総長の格調高い式辞の後早稲田大学交響楽団によるワーグナーのニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲が華やかに演奏され胸が高鳴りました。その後理工学部のキャンパスに移動するとそこはコンクリート打ちっぱなしの灰色の世界で、学生のほとんどがむさくるしい男ばかり、私は工業高校に紛れ込んだのかと錯覚するほどでした。ちなみに写真の高層建物は1967年竣工の18階建て高さ65.24mで翌年霞が関ビル36階建て高さ156mが竣工するまでほんの一瞬日本一高いビルディングと呼ばれた理工学部51号館校舎です。これは学校建築の権威安東勝男教授の設計によるもので、建物の不便さの責任を取らされて建築学科は最も不便な最上階へ追いやられていました。
このむさくるしい男子学生が猿団子状態の写真は、当時吉阪隆正教授の研究室の卒論生で山形県米沢市にあった農村文化研究所という古民家の2階に陣取って昼間は東北の民家や集落のリサーチ、夜は大きなやかんに安物のウィスキーの麦茶割をこさえて毎夜山賊のように宴会に興じていたころの仲間達の写真です。卒業後、皆それぞれの分野に進みましたが、最も個性的なのが真ん中に写っている伊勢崎賢治君です。彼は単なる建築プランナーにはなりたくないと言って世の中を救うソーシャルプランナーの道を目指してインドボンベイのスラム街に身を投じて活動しました。結果、インド政府から国外追放の身となりましたが、その後独自のキャリアを歩み国連から東ティモール県知事として派遣されたりアフガンの武装解除を指揮したり、しばらくは東京外語大の教授をしていましたが、今年の参議員選挙のれいわ新選組の候補として当選を果たし今は国会に身を置いています。伊勢崎君が新宿の酒場で山下達郎の「ライドオンタイム」をアカペラで唸っていたのが思い出されます。
次回も~巡り会った人と建築の~の続きの話をさせていただきます。