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8月31日会長の時間

2025.08.31

会長の時間

皆さんおはようございます。本日は毎年恒例の野外家族例会に多くの会員の皆様、奥様、お孫さんそしてファンド奨学生のお二人にもご参加いただきましてまことにありがとうございます。
今回の野外家族例会は大友宗麟の足跡をたどるというコンセプトで、津久見と臼杵の二つの町を訪ねる旅といたしました。

1530年に府内の地で名門大友家の長子として誕生した大友宗麟は1550年に大友二階崩れの変を経て大友家の長となり、その後、豊後、豊前、筑後、筑前、肥後、肥前六か国を支配する九州探題としての栄華を誇り、1551年に府内を訪れたイエズス会のフランシスコ・ザビエルを筆頭にルイス・アルメイダ、コスメ・デ・トルレス、ルイス・フロイス、カブラル、ヴァリヤーノなど多くの宣教師を庇護し府内と臼杵を2拠点にキリスト教文化の華を豊後の地に咲かせました。
1578年には自ら洗礼を受けドン・フランシスコと名乗り理想のキリスト教王国の建設を夢見て日向へと進軍しましたが島津の軍勢に完敗し敗退遁走という憂き目にあいました。

その後、大友家は次第に衰退し、1586年に島津の軍勢に府内の町を焼き尽くすまで攻め込まれ、宗麟自ら豊臣秀吉の援軍の要請に出向き、翌1587年に秀吉の手により島津を征伐し九州が平定され大友は宗麟の嫡子義統が支配する豊後一国の豊臣大名に成り下がりました。この時秀吉から日向一国を宗麟に与えると申し入れがありましたが宗麟はそれを固辞しています。その時の宗麟の心境はいかなるものであったか興味のあるところです。
1587年5月に宗麟は津久見の地で亡くなりました。その直後ともいえる6月には秀吉がバテレン追放令を博多の地で発しています。

本日はまず、1977年に元大分市長上田保氏の依頼で建築家磯崎新氏がデザインした宗麟の墓にお参りします。本日ご参加いただいている上田保市長のお孫さんで、大友宗麟を題材にした小説「王の挽歌」を小説家遠藤周作氏に執筆依頼した平松守彦元大分県知事のお嬢様の橋本パスト会長夫人の橋本世紀子様に宗麟墓と豊後キリシタンの解説をお願いしています。

後半は、宗麟ゆかりの城下町臼杵でおいしいお食事と街の歴史散策を企画していますので皆様どうぞお楽しみください。

最後に捕捉ですが宗麟亡き後、嫡子の義統は秀吉のバテレン追放令を受けていち早く自らキリスト教を棄教し宣教師を追放、キリスト教徒を弾圧しました。1589年府内で最初の殉教者の名が仲摩ヨラムという鶴崎高田生まれの老武士とその家族だったと「日本西教史」に記述のあることが西南大学の「キリシタン文化資料」に書かれています。

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