OITA WEEKLY

週報

第8回例会 2025年9月2日 No.3539

例会 毎週火曜日12:30 トキハ会館4F
会長 仲摩和雄 / 幹事 栗山嘉文

本日のプログラム

※食事12:20~12:40

点鐘 12:30

国歌 君が代

ロータリーソング 奉仕の理想

ゲスト・ビジター紹介 仲摩会長

会長の時間 仲摩会長

出席及び幹事報告 栗山幹事

委員会報告  関係委員長

大分RCファンド奨学生へ奨学金贈呈

ニコボックス 佐藤副会長

今週のお祝い

【出席100%】
森若 利幸会員 5年
栗山 嘉文会員 2年

【結婚記念日】
十河 健二会員 9月6日

卓話 13:00

「私の生い立ちと『信託』の話」

三井住友信託銀行 大分支店
  支店長 石岡 久嗣 会員

前回の出席報告

第7回 8月31日

会員総数(免除会員)51名(3名)
出席総数(免除会員)29名(0名)
出席率60.42%
ゲスト2名
ビジター7名(受付のみ)
8月5日修正出席率83.67%

行事予定

令和7年9月7日(日) ローターアクト社会奉仕活動「アクトの森活動」

9:15 阿蘇体育館駐車場集合
新井RA担当

令和7年9月20日(土) 大分Oli Oliロータリークラブ認証状伝達式・祝賀会

17:00~18:00 認証状伝達式
18:20~20:00 祝賀会   レンブラントホテル大分2階 二豊の間
仲摩会長 栗山幹事

令和7年10月4日(土)~5日(日) RI第2720地区ローターアクト第41回地区年次大会

4日13:00~13:30開会式、5日11:10~11:40閉会式 
別府市公会堂 
須藤青少年奉仕委員長 新井RA担当

令和7年10月25日(土) 福井ロータリークラブ創立75周年記念式典・祝宴

15:30~17:00 記念式典
17:30~20:00 祝宴
ザ・グランユアーズフクイ
仲摩会長 栗山幹事 小野会員 須藤会員 

令和7年10月25日(土) 大分第4グループIM

14:00~16:00
平和市民公園能楽堂 

令和7年11月9日(日) 大分RC第1回親睦ゴルフ

竹中カントリークラブ 10:08スタート ※後日詳細ご案内 

例会予定

開催日内容
9月9日(火)夜間例会18:30点鐘 ホテル日航大分オアシスタワー21階エトワール
ゲスト卓話 藤内修二氏(大分県東部保健所長)
“企業との協働による健康寿命日本一の奪還”
9月16日(火)定款第7条第1節に基づく休会
9月23日(火)定款第7条第1節に基づく休会
9月29日(月)ガバナー公式訪問(9/30(火)の繰り上げ)トキハ会館5階ローズの間
10月7日(火)職場例会 <大分県立芸術文化短期大学>
10月14日(火)定款第7条第1節に基づく休会
10月21日(火)新会員歓迎夜の例会18:30点鐘(出席8,000円 欠席4,000円)
10月28日(火)ゲスト卓話 大分県立聾学校 校長 小石 秀仁氏
ロータリー文庫寄贈
11月4日(火)定款第7条第1節に基づく休会
11月11日(火)夜間例会・創立75周年記念例会
11月18日(火)ゲスト卓話 倉迫諄さん(2024-25年度ロータリー青少年交換留学生)
11月25日(火)定款第7条第1節に基づく休会

例会変更

クラブ名開催日会場
大分城西9/3(水)ホテル日航大分オアシスホテル
別府東9/4(木)ホテルサンバリーアネックス
大分臨海9/8(月)ホテル日航大分オアシスホテル
大分19859/8(月)トキハ会館
別府北9/10(水)ホテル別府パストラル
大分城西10/1(水)ホテル日航大分オアシスホテル

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先週の議事録


会長の時間

今週も「建築を通して私が学んだこと~巡り会った人と建築~」の話をさせていただきます。
先週お話しした礒崎新先生の大分県立図書館の後編です。

1966年に竣工した大分県立図書館を約30年の時を経て1991年、平松守彦大分県知事のもと蔵書数120万冊規模の図書館機能と、県政資料館、先哲資料館を併設した「豊の国情報ライブラリー」に建て替える計画が推し進められ、その設計者に磯崎新先生が選抜されました。ちなみに平松守彦知事は最初に磯崎先生を見出した上田保大分市長の女婿でもありました。
1991年の初頭、磯崎アトリエの藤江修一氏と大分県の方々が突如私の事務所にお見えになられ「新大分県立図書館」の設計を磯崎アトリエと東九州設計の共同チームでやらないかと申し入れがあり、藤江さんの「デザインがどうやって生まれるかを解き明かせるよ」という言葉に魅せられ取り組むこととしました。当時我が社の東京事務所員2名と本社の主力スタッフ3名を東京に派遣することとなり、磯崎アトリエからは若手の今永氏をチーフに模型製作者を入れて4名計9名の混成チームで六本木の閑静な住宅街に位置する大俳優長谷川一夫氏旧邸を借り上げてアトリエとしました。藤江修一さんはこの時期磯崎アトリエの大番頭で私と同じ大学出身ということもあり様々なことを私に伝授してくれました。藤江さんは当時磯崎建築の中でも傑作の呼び声の高かった群馬の森美術館の設計チーフとして活躍されたばかりでした。90年代の磯崎先生はデビューから30年、プロセス・プランニングに始まった手法の変遷を経て魔術のように次々と新たな建築を生み出していました。
新大分県立図書館も旧図書館と同じビルディングタイプでありながら全く異なる手法で組み立てられています。メインの閲覧室一辺7.5メートルの純粋形態である立方体フレームを9×9=81個を正方形の平面に配し、この空間を2階に浮かび上がらせています。磯崎先生はこれを「百柱の間」と名付けました。閲覧室への導入部分は7.5メートル立方体4個分15メートルの立方体空間に天井に内接する円盤を吊り下げ壁面との隙間から天空の光が降り注ぐ空間としています。この空間を経由して階段で2階の閲覧室へと導きます。これは最初の図書館で天空の光を取り込む聖堂のような空間を経て閲覧室へと導くストーリーと同質のストーリーが再現されているといえます。岩田学園の岩田英二先生は当時私に「新大分県立図書館は磯崎の代表作になる」と力説されました。半年に及ぶ設計期間を経て工事監理にも参加することとなり磯崎アトリエの今永さんと共にわが社も2名派遣しました。

起工式で磯崎先生は30年の時を経て再び大分県立図書館の設計に携われることへの感謝を述べるとともに20世紀に生まれた鉄筋コンクリート造の建築を作る技術の粋を、コンクリートを打ちあげる技術の到達点を表現してほしいと施工者に注文されました。
現場においては異なる調合によるコンクリートのモックアップを10種類近く作って磯崎先生に見てもらったり、途中まで打ちあがったコンクリートの躯体を壊してやり直したり、閲覧室の天井は144個の天空を落とすトップライトの光を連続するつなぎ目の無いクロスボールト形状をGRGパネルで制作することとなり国内では制作できずイギリスに発注すこととなりわが社の坂本君が製品検査にロンドンまでとんぼ返りで派遣されました。
何しろ建築を構成する要素のどの部分にも既製品は存在せず、外壁に用いたライムストーン、特注のせっ器質タイル、金属建具や空調吹き出しの自立したシリンダーまですべての金属部にランダムヘアライン仕上げの無垢のステンレスの特注品、床材は分厚い無垢のフローリング、81個の立方体フレームはピン角の現場打ちコンクリート、すべてを本物で作り上げた建築となりました。
1995年2月に開館した新大分県立図書館の初代館長は私の大分上野ヶ丘高校時代の恩師、英語の宮本高志先生でした。
一方、旧大分県立図書館は、建設時の発注者大分県知事木下郁氏の甥にあたる木下敬之助大分市長が平松守彦大分県知事から受け継ぎ市の予算で耐震補強や改修を施し磯崎先生の建築資料の展示室と企画展示ギャラリーを備えた「市民アートプラザ」へと転生しました。 アートプラザでしかお目にかかれない磯崎先生の他に類のない木製建築模型群には訪れるたびに深く心を動かされます。ぜひ「建築」の本質に触れることのできる磯崎建築の展示を皆様にもご覧になっていただきたいと思います。


幹事報告

1. ガバナー月信 9月号(各テーブルで回覧)

  ホームページにも掲載していますのでご覧ください。


委員会報告

8月31日野外家族例会報告

クラブ管理運営委員会 十河委員長
 

ファンド奨学生へ奨学金贈呈

2025-2026年度大分RCファンド奨学生のコ イメイさんとジョン ジヒョクさんへ仲摩会長から奨学金が贈呈されました。


卓話

「私の生い立ちと『信託』の話」

三井住友信託銀行 大分支店
  支店長 石岡 久嗣 会員

皆さん、こんにちは。
三井住友信託銀行の石岡です。この度は卓話の機会を頂き、有難うございます。
ロータリークラブの卓話については、弊社の場合、鉄板ネタがあり、それは「我が国のロータリーの父であり、弊社創業者で初代社長であられる米山梅吉翁の話」なのですが、前任が既に話をされてますので、本日は自己紹介を兼ねて自分の生い立ちと、「信託」について話をさせて頂きます。

まず、私のことですが、1974年に大阪府寝屋川市で生まれました。父親は大阪市職員、母親は学校の先生で、私は男ばかりの4人兄弟の次男として生まれました。
小学校は地元の小学校で、当時は父方の祖父母と3世代で同居していましたので、両親からすると経済的にも子育て的にも余裕があったのかもしれません。月木はスイミング、火金は絵画教室、土日は少年野球と英才教育を受けておりました。

小学校3年生になる時に、奈良県大和郡山市に引越しました。引越後は、母は仕事を辞め、住宅ローンを抱えながらでしたので、恐らく両親も経済的に苦しくなってきたのでしょう。兄も弟も含めて英才教育は終わりました。ここで少し、大和郡山市の話をさせて頂きます。

地理的に言うと、奈良県北部の奈良盆地の少し大阪寄りに位置します。実家の近くには、法隆寺があります。大和郡山は、お城と金魚の町として知られています。郡山城は、来年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公である、豊臣秀長の居城であった為、地元は随分と盛り上がっているようです。また金魚の養殖は国内トップクラスで、毎年金魚すくいの全国大会も行われています。

その後、地元の中学に入学し、バレー部に入部。入学時、バレー部は無かったのですが、たまたま赴任してきた体育の先生が、背の高い人や運動できそうな人を勧誘してバレー部を創り、私も入部しました。あとでわかったのですが、その先生は、中学バレーの指導者の第一人者で、関西の中学で初めて全国優勝させた実績のある先生でした。指導者に恵まれたわけですが、昔の体育会系ですから、ご想像の通り、地獄の日々でした。
奈良県では2位でしたが、我々は幸か不幸か近畿大会で敗退し、地獄から解放。悔しいというより、やっと終わった・・・という感情でした。

高校は県立奈良高校に入学。高校でもバレー部に入部。春の高校バレーの奈良県予選で決勝戦まで進みましたが、結果は残念ながら敗戦となり、またもや2位で終わりました。
大学は大阪大学に進みましたが、片道2時間の通学であまり行ってなかったと思います。入学当時、「現代用語の基礎知識」に、「芋掘り」という言葉があり、意味は「阪大との合コン」と書いてあり、ショックを受けた覚えがあります。

就職活動では、公務員家系で育った私にとっては民間に就職するイメージが持てず、就職氷河期でもあり、どこに就職してもいいと思って活動していました。ただ銀行だけは避けたいと思っていたのですが、住友信託と三井信託からも連絡を頂き、そもそも信託銀行の存在すら知らない中で、銀行とは違うと吹き込まれ、最終的に住友信託から先に内定をもらいました。その時点で三井信託はお断りしましたが、今となってはどっちに行っても、結果的には同じでした。

住友信託では入社後4年半は個人営業でした。2001年の札幌からはずっと法人営業でキャリアを積んできました。札幌は97年の拓銀破綻以降、経済は冷え込み、不良債権処理という後ろ向きな仕事が多かったです。
実はこの頃、信託銀行も窮地にあって、他の信託はメガバンクの傘下に入る中、住友信託は、独立経営を志向しメガバンクに対抗するために、地方銀行とタッグを組んでいくという戦略を取りました。地銀と顧客がバッティングしないこと、地銀の圧倒的な顧客基盤と弊社の信託や不動産という機能等を組み合わせることでWINWINの関係を目指していました。
2004年に金融法人部が新設され異動します。地銀担当かと思いきや、地銀以外チームで、生損保・系統上部・政府系・NB等を担当することになりました。当初苦労しましたが、結果的に金融業界全体のことが良く分かる様になったと思います。
その後、東京営業第1部で大企業担当をしたのちに、仙台支店に異動しました。初めての単身赴任です。この時の最大の思い出は、やはり東日本大震災です。私は福島県で営業中に被災したのですが、会社とは連絡が取れず、道路も寸断しており、翌朝まで仙台に戻れませんでした。

仙台支店在籍時に、中央三井信託と統合しました。
その後、2度目の金法部に異動。当時の金法部は営業フロントでありながら、金法戦略の企画・業推も担っており、半分営業・半分本部という組織でした。これまで北海道・東北・首都圏・中部・北陸・京都滋賀の地銀とは何らかの接点を持たせて頂き、中四国・九州だけ担当したことが無かったのですが、2018年に福岡支店に異動し、福岡・佐賀・長崎・熊本・鹿児島の金法・非営利を担当しました。残念ながら大分と沖縄だけは担当することがありませんでした。
その後は京都に異動し、京都では歴史や伝統的な文化等に触れることが出来、貴重な経験もたくさんさせて頂きました。
単身赴任も7年続いたので、次は自宅に帰ることになるのだろうと思っておりましたが、4月から大分支店ということで、2度と九州に戻れないと思っていた私は、驚きとうれしさしかなかったです。

それでは、後半の「信託」についてお話をさせて頂きます。
そもそも、「信託」の起源は、11世紀~13世紀頃、中世イギリスで起こったと言われています。当時、教会への土地の寄進が禁止されている中で、自分の死後に信頼できる人に土地を託し、その土地で得たお金を教会に寄附してもらっていました。これは「ユース」と呼ばれていました。

また、十字軍遠征のころ、戦地へと向かう兵士は残される家族への想いを込めて信頼できる人に領地の管理を託しました。自分や誰かの為に、信頼できる人へその財産を託す仕組み、これが「信託」の起源であると言われています。
「信託」には、登場人物が3人います。財産を所有する人(委託者)、財産の委託を受けて管理する人(受託者)、財産から生じる利益を受け取る人(受益者)の3人です。
我が国においても、実は「信託」に類似した仕組みがあったと考えられています。

例えば、織田信長は、当時、大変な窮状にあった皇室への経済的支援を目的として、京都の田畑から年貢とは別に税米を徴収し、京都の生活共同体である町衆に預託して、貸付で運用させ、その収益を皇室に収めさせたと言われています。これを信託の仕組に置き換えると、委託者は織田信長、受託者は町衆、受益者は皇室ということになります。
「信託」の起源については、諸説ありますのでが、わが国でもこのような仕組みがあったことは興味深いですし、やはり「信託」とは、時代や地域によらず、様々な場面で利用できる普遍的なものではないかと思いました。

ここで、大分に来て初めて知った実存する信託契約をご紹介します。
昭和2年に大分の方が、期間100年の金銭信託を行っていたという話です。
今から36年前の平成元年に新聞に取り上げられました。記事では、竹田市在住の人が、家内安全を祈る目的で、金銭500円を100年間、当時の三井信託に信託していたとされています。当時の500円の貨幣価値は分かりませんが、「当時の500円が、100年後に11万円になるかも」という内容です。平成元年当時の金銭信託の予定配当率5.5%の複利計算をしたと思われますので、実際にはそこまで大きな金額にはなっていません。
「信託目的」として親族の家内安全、家運長久を氏神城原八幡に祈願し、同神社基金として奉賽する目的をもって、三井信託と指定金銭信託契約を締結する、と書かれています。受託者の代表者として、三井信託初代社長であった、米山梅吉翁の名前も出てきています。米山梅吉翁はご存じの通り、日本のロータリーの父であり、三井信託の初代社長でありました。
大正12年に信託法・信託業法が施行され、翌年大正13年に米山梅吉翁により、三井信託が設立され、そのわずか3年後にこのような契約がなされていたことは非常に驚きました。
また、当時、信託会社は東京と大阪にしかなく、この委託者は竹田から500円を持って東京に出向いたと思われると新聞記事は書いています。
私はこの話を知ったときに、自分の財産を使って、向こう100年間の家内安全・家運長久を祈った、この委託者の「想い」と「行動力」に感動しました。

昨年、三井信託の設立100周年、今年は住友信託の設立100周年、そして大分支店の開設50周年の節目の年です。ブランドスローガンとして新たに、「託された未来をひらく」と掲げております。

人生100年時代と言われる現代でも、世の中の変化や制度の変化に応じて、様々な形で信託が活用されています。時代は変わり、求められるものも変化しますが、いつの時代も、人の「想い」をつなぐという普遍的な価値観に、信託の仕組みは活用できるのだと信じて、地域に貢献してまいりたいと思います。

以上、つたないお話でしたが、卓話を終わります。ご清聴ありがとうございました。

奉仕の理想

奉仕の理想に集いし友よ
御国に捧げん我らの業
望は世界の久遠の平和
めぐる歯車いや輝きて
永久に栄えよ我らのロータリー

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